講演会レポ

Too2013-07-14

 ひととおり書き終わったデータがふっとびました(泣)。記憶を辿りつつ、再度書きますが、おかしな点があったら気力が目減りしたからだとご理解ください。
 さて。Scopeさんfacebookムーミンマグ連載のトフスランとビフスランが公開されました→セキュリティチェックが必要です
 いくつかの意味でチャレンジングな内容となっております(笑)。トフスランとビフスランは大好きなキャラクターなのですが、気になっていたことがあったので、徹底的に調べました。画像はアフォガート。これまた大好きなデザートです。かなり前に撮ったので詳細忘れましたが、ルビーに見立てたのは冷凍のイチゴだったかな。
 そんな記事とちょっと関連のある、昨日一昨日の講演について、思いつくままに記録しておきたい思います。長文になりますので、スマホ/携帯の方はご注意ください。
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 少々追記しました。あと、トゥーラさんは来年、フィンランドアテネウムで大々的に開催されるヤンソン回顧展のキュレーターでもあり、今回の来日は日本巡回先の下見も兼ねている(そっちが本来の目的?)ようです。巡回先は、横浜、大阪、新潟、北海道、あと一カ所忘れました。伝記はその回顧展に合わせての出版となるようです。


 まずは7月12日に行われたGallery A4の「トーヴェ・ヤンソンの夏の家−ムーミン物語とクルーヴ島の暮らし−」展の基調講演・シンポジウム。
 第1部はおなじみ冨原眞弓先生による「私とトーヴェ・ヤンソン」。なぜか“私とシモーヌ・ヴェイユ”から話は始まり、当時のフィンランドの情勢を踏まえながら、ガルムの絵のすみっこに登場したムーミンスノーク)からムーミンシリーズ誕生に至るまでを丁寧に教えてくださいました。スリムでダンディな冨原先生は喘息を患っていらっしゃるとかでお辛そうではありましたが、洒脱なトークに引き込まれているうちに気づけばまさかの40分押し! 
 続けて伝記『トーヴェ・ヤンソン』著者トゥーラ・カルヤライネンさんによる第2部「トーヴェ・ヤンソンの自伝を出版して」に突入しました。トゥーラさんは3年間に渡り、友達から“ムーミン谷で迷子になったのね”と言われるほど、執筆に没頭。が、伝記はまだ出版されていないようで、伝記執筆にまつわる話ではなく、トーヴェの絵をモニターに投影しながら、当時の状況や心境を読み解いていく、という内容でした。通訳は翻訳家の安達まみさん。早口で喋り続けるトゥーラさんの通訳は大変そうでしたが、安達さんも生前のトーヴェに会ったことがあるそうで(残念ながらエピソードを語っていただく時間はなかった)、ムーミンやトーヴェについてお詳しく、的確でわかりやすい通訳でとても助かりました。
 トゥーラさんのトークも大幅に時間オーバーで、シンポジウム「トーヴェ・ヤンソンからのメッセージを読み解く」は中止(笑)となり、冨原先生から「当時のフィンランドでトーヴェはどう評価されていたのか?」(→残念ながら、ムーミンフィンランド語に訳されたのはかなり遅く、今もムーミン以外ではあまり知られていない)、トゥーラさんから「日本人はなぜそんなにムーミン(トーヴェ)が好きなのか?」(→人見知り、行間を読む、といった国民性が共通するからでは?)と質問をかわしただけで終了。会場からの質問もできませんでしたが、知られざるエピソード続々で大満足でした!


 13日に恵比寿のamuで行われたのはトゥーラさん単独の講演「ムーミンの産みの親、トーヴェ・ヤンソンとその仲間たちの知られざる世界」。30年以上前から活動しているというバルト・スカンディナヴィア研究会の例会だったらしく、同研究会の方が50〜60人の会場の1/3を占めていたため、通常のムーミン関連イベントとはかなり客層が異なりました(研究会の方が、トーヴェの婚約者だったとされるアトスにインタビューしたことがあった!という驚きの証言も飛び出しました)。
 お話の一部分は前日と同じでしたが、より掘り下げた話を伺うことができました。トゥーラさんは伝記執筆にあたって、トーヴェがアメリカに渡った親友エヴァ・コニコヴァ(旧ソ連生まれのユダヤ人だったため、アメリカに亡命)、婚約状態だったアトス・ヒルタネン(フィルタネン?)らと交わしたたくさんの手紙を読んだそうです。トーヴェが自分で作ったという蔵書票、学生時代の絵、油彩、写真などを交えて、主にトーヴェを取りまく人々について詳しく語ってくれました。トゥーラさんのトークも軽々と1時間押し! 通訳の方はムーミンのことはご存じないようで、かなりはしょられてしまったので、一部、わたしのあやしい英語読解力による意訳も含みますが、以下、覚えていることを箇条書きでメモしておきます。


*トフスランとビフスランのモデルになったビビカ・バンドラー(著名な劇作家、演出家)はトーヴェの最初の女性の恋人だった。深く愛し合っていたが、(時代的に?)厳しい状況で、恋愛関係が終わった後も生涯いい友達だった。ふたりでイタリア旅行をした際のイラストも残っている。壁画に描かれた踊る女性はビビカがモデルになっている。
*アトス(スウェーデン語系の新聞?雑誌?の編集者で、トーヴェに最初のマンガ連載の依頼をした)は政治的な活動を活発にしていたが、トーヴェは政治的な活動に参加するのは好きではなかった。ふたりの結婚パーティの計画があったが、政治的なしがらみで実現せず。また、ふたりでモロッコ(だったと思う。暖かい国)に大きな家を買って移住するというプランもあり、その様子を夢想した絵も残っている。当時は珍しいことだったが、ふたりは結婚せず、事実婚のような状態だった。アトスがちゃんと結婚しようと思ったときにはトーヴェはその気をなくしていた。
スナフキンの帽子、パイプはアトスが使っていたものとよく似ている(個人的な注:顔はあまり似てないので、トゥーリッキ=トゥーティッキほどアトス=スナフキンという説が広まっていないのではないかと)。アトスは哲学者でもあり、じゃこうねずみのモデルにもなったが、じゃこうねずみ悲観主義者なのに対してアトスは楽観的な性格だった。
スウェーデンフィンランド人はフィンランドにおいてマイノリティだが、当時は今よりは多かった。スウェーデン系はフィンランド系よりいい教育を受けていることが多かったため、ねたまれることもあった。スウェーデンフィンランド人には貴族もいたし、アーキペラゴの漁師、農民もいた。
*現在のスウェーデンフィンランド人の言葉はスウェーデン語とは少し異なるため、「ムーミン語」とも言われている。
*トーヴェは歩より前に絵を描くことができた、と言われていた。
*トーヴェは学校が大嫌い。特に数学が苦手で、母が「数学は勘弁してやってください」と学校に頼んだほど。
*学校を15歳で辞めたが、その後、母の通ったスウェーデンの美術学校、父の通ったフィンランドの美術学校に通った。
*「クリスマスのソーセージ」という手作りの本をクラスメイトに売っていた。表紙には牛たちが腸詰めの中に飛び込んでいく様子を天使がニンマリ笑って見ているという絵が描かれている。
*トーヴェは旅が大好きで、女性の一人旅が珍しかった時代にパリに行った。
*家族が大好きで、独立したのは29〜30歳のとき。トーヴェがもっとも愛していたのは母親ではないかと思う。母親と仲がよすぎたため、パートナーは苦労を強いられた。特に誰といっしょに旅行に行くかは大きな問題だった(そんな話が小説にありましたね!)
*パーティが大好き。ダンスもとてもうまかった。
*ワインが大好きでヘヴィスモーカーだった。両親もタバコを吸っていた。
*トーヴェはフェミニストではあったが、そう呼ばれる(名乗る?)のは嫌った。
*トゥーラさんは卒論で4人の画家を取り上げ、そのうちのひとりのサム・ヴァンニがトーヴェの元カレだった。その関係で、当時すでに高名(かつ高齢)だったトーヴェにダメ元でインタビューを申し込んだところ、気軽に受けてくれた。そのうち、トーヴェのほうからトゥーラさんの話を聞きたがるようになったが、それは再婚して行き来のなくなったサムの晩年について知りたかったから。
*『ムーミン谷の11月』でママを恋しがるトフトは、当時高齢で病気だった母に対するトーヴェの思いが投影されている。物語に登場するトーヴェは、トフトといい、ムーミンといい、なぜか性別が男の子になっている。
*ニョロニョロは性的エネルギーの象徴。スウェーデン語のスラングミムラ(ミュンメリ?)はmake love(!)という意味をもつ。
*当時、女性が画家になるのは難しいことだった。ムーミン以降もトーヴェは画家でありたがったが、画風が古い、ムーミン人気のためにやらなければいけないことが多すぎた、文化人グループの付き合いもある(ちやほやされていたかった?)などのさまざまな理由で、パリの芸術家の家に滞在して自画像(本人は“醜い自画像”と呼んでいた)とキャンバスに向かうトゥーリッキの絵を最後に画家の道を諦めたと思われる。
*トーヴェにとってガルムは自己表現というよりはお金のための仕事だった。トーヴェは風刺を楽しんではいたが、ほかのアート作品とは一線を画すものと捉えていたらしい。
*トーヴェは戦争が大嫌いだったが、戦争がなければムーミンは生まれなかった。晩年のインタビューで「どんな人生でしたか?」と問われたトーヴェは「いろんなことがあって、私は幸せ。でも、やり直せるならまったく別の人生を生きると思う」というようなことを答えている。
 こんなところでしょうか。参加なさった皆さま、間違いや追加がありましたらぜひコメントください。よろしくお願いいたします。